【第877号】 自分こそが礼である~孔子~
本日は、
渋沢栄一翁の「論語と算盤~自己修養篇~」(現代語訳:奥野宣之氏)
P147にあります「自分こそが礼である」をご紹介します。
畏怖されることがない私には、目指すことも叶わない
凄い境地を極めている孔子のお話しです。
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孔子はときには強い自負を感じさせるような言葉も口にしています。
たとえば桓魋(かんたい:宋の武将)が孔子を殺そうとしたとき、
弟子たちが恐怖していたら、孔子はこう言いました。
「私は天に徳を与えてもらった。
桓魋よ、おまえごときがそんな私を殺せるかな?」
そんな「境遇」を受け入れて平気でいたのです。
またあるとき、孔子が宋に行った帰りに大勢から囲まれて、
今にも危害を加えられそうになったことがありました。
このときも弟子たちが震えあがっていると、
孔子はこんなことを言いました。
「天が今、私という学問を滅ぼしたなら、
後の世代の人は私の学問に触れることはできなくなる。
だから天は私を殺さないのだ。
宋の人びとよ、私をどうするつもりだね?」
孔子は動じない様子で、
自分の身の危険を少しも心配していませんでした。
さらにあるときに、ある人が、孔子が大廟(王の墓)に入って
儀式のやり方を細かく質問しているのを見て、
「あの鄹(すう)の町の役人の子供(孔子のこと)は、
『礼』を知っているというが、
大廟に入るとすべてのことをうるさいくらいに聞いてくる。
あんな様子では『礼』を知っているのではないだろう」
と言ったら、孔子は答えて言いました。
「これが『礼』だよ。
こうすることが『礼』を知っているということなんだ」
自分の「境遇」と立ち位置をよくわかった上で、
道理に合うように正しく活用すること。
これこそが、孔子が大聖人になることを可能にした
唯一の修養法だったのでしょう。
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如何でしょうか?
大聖人になることを可能にした唯一の修養法だった、
と渋沢栄一翁は言われています。
わかっていても出来ません。
どうすればこのような達観した境地に達することができるのでしょう?
876号で道元禅師の考え方をご紹介しました。
自他を超越して森羅万象と一つになる
孔子もそのようなところにいらっしゃったと思います。
孔子や道元禅師のように考えるべき、考えたいと思いますが、
全く足元にも届きません。
同じ人間でありながら、偉人の心のあり方はどうやって作られたのでしょう。
孔子も道元禅師には
「そんなダメなところもあるんだ~」
みたいなエピソードは残っていないのでしょうか?
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